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「山月記」個人的読解

 今回は、山月記を取り上げたいと思います。

なぜ、山月記なのか?


・・・・・・・さあて、なぜなんでしょうね。(・_・ ) ( ・_・)キョロキョロ

この山月記(中島敦著)、学生時代に読んだ時もなかなか興味深い内容だったんですが、
改めて読み返すと、胸に来るものがあります(。-_-。)

山月記は、簡単に言うと、賢いエリートが、自らの臆病な自尊心と尊大な羞恥心によりトラとなってしまった話です。
もっとも、これは主人公李徴の解釈であり、それが本当であるかはわかりません。


彼は、なぜ虎になったのか?
いったい、李徴の心理とは、どういうものだったのか?
虎になった李徴の考え方とは?


今回は、そういうことに焦点を当てて、山月記を読み直したいと思います。


まず、原文ですね。青空文庫(著作権切れ)で読めます。
こちらです。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/624_14544.html

・・・さて、いかがだったでしょうか。

李徴、すごいことになってしまったのだね・・・(ToT)



さて、李徴を分析
李徴の来歴

若くして名を虎榜こぼうに連ね・・・若くして、科挙に合格しています。
    ↓
江南尉に補せられた・・・江南という地で、尉(官職)につく。兵事関係みたいです。
    ↓
官位を退職し、詩作にふける
    ↓
文名が容易に揚がらず・・・・・・なかなか詩で有名にならない
    ↓
己おのれの詩業に半ば絶望・・・自分の詩作(名声を得ること)に半分絶望してしまう
    ↓
妻子の衣食のために遂ついに節を屈して再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずる
・・・・・・妻子のために、ついにあきらめ、東の地で、一地方官職になる
    ↓
一年の後、公用で旅に出、汝水じょすいのほとりに宿った時、遂に発狂した・・・旅の途中発狂してしまった・・・。




李徴の性格(世界をどう認識しているかという事によって生まれる態度)
李徴は、自分の賢さ、才能から、自分は偉いのだと感じています。
名声を求めており、人より優れていると思われたいようです。
そして、人に使われることをとても嫌っている。
これは、臆病な自尊心と、尊大な羞恥心のなせる業だといっています。
(人に使われるのは劣ったことだという認識に基づく自尊心と同時に、人に使われるのは恥ずかしいことだと考える羞恥心)
また、このことにより、トラになったのではないかと自己分析しています。

詳しく、「才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡すべてだった」といっています。


才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧=自尊心が傷つくのを恐れる=臆病な自尊心

刻苦を厭う怠惰=思いっきりやっても、出来なかったらどうしよう(恥ずかしい)=尊大な羞恥心

こういうわけですね。
続けて、「己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸ようやくそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼やかれるような悔を感じる。」

といっています。

ここを、どう理解すべきでしょうか?

臆病な自尊心と尊大な羞恥心により、詩作が思うようにいかなかった。
そして、才能がなくても、一生懸命詩と向き合い、詩を磨きあげたことで、すばらしい詩家になったものがいる。

ここまでは、すんなりいきます。
しかし、そのあとの「虎と成り果てた今、己は漸ようやくそれに気が付いた」
ここの「それ」は、何を指すのでしょうか?
自尊心と羞恥心により詩作がうまくいかなかった点でしょうか?
それとも、才能がないのに、頑張ったあげく素晴らしい詩人になったものがいくらでもいるという点でしょうか?


ここの個人的解釈は、おそらく、両方含んでいるんですが、注目すべきは
「頑張ったあげく素晴らしい詩人になったものがいくらでもいる」という発言を、李徴がしている点です。


ここに、李徴の自負心というか、競争心が見えているわけです。

詩というのは、本来、点数を出して競い合うような種類のものではないでしょう。
心に訴えかけるものがあればどんな詩も優れているのであり、この詩とその詩、どちらがより優れているかを競う「必要性」は本来ないわけです。
もちろん、競うという事もあるでしょうが、それを離れて詩を作るという事はいくらでもあるというか、むしろそちらが自然なように思えます。


そのことを踏まえず、李徴は、科挙のような競争心で詩作に臨んでいた。
だから、負けることを恐れていた。そして、負けるはずがないと思っていた。
しかも、だれよりも、抜きんでていたかったというわけですね。

 李徴の目的は、確かに、優れた詩を作ろうという部分を含んでいました。
しかし、ただ優れた詩を作ろうという事よりも、他人との競争に勝ち、名声を得る点に李徴の詩作の重心があったと理解できます。


作中では、袁が

「成程なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於おいて)欠けるところがあるのではないか、と。」
と評していますが、おそらくこれは、李徴が競争を目的に、つまり、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を持ちながら作ったものだからではないか・・・と、個人的には考えています。


しかし、この山月記は、非常に人間の心理を的確についているとおもいます。
まったく、こういう人間はたくさんいるし、ここまで度が過ぎていないというだけで、だれの心にもあるといって過言ではないかとすら思います・・・。

僕個人は、李徴、嫌いじゃないです笑

李徴にも、いいところはあると思うんです。


1、自負心があるところ

自分はできないとおもっているひとは、その時点でできません。
出来ると思っていることは、とても大事なことだと思います。
李徴は、現に、一流になりうる詩作をしていますので、それは、自分はできるという気持ちによるでしょう。
何もできないという風に考えて、何もしない人よりは、かなりいいんじゃないかと思います。



2、妻子のために、詩作をやめた

尤も、これは、自分の詩作に絶望を覚えたためとありますから、ちょっとネガチィブな感じはしますが
それでも、ある程度認められることでしょう。
妻子のことを慮る発言も、袁にしています。
李徴にとっては、詩作が第一義で、第二義が妻子だったという事なのでしょう。
それとも、それすら自尊心で、つまり、世間からどう思われるかきにして、結婚したんでしょうか。
そして、妻子のことを考えているふりをしていたんでしょうか・・・。
・・・自尊心という言葉から、ここまで疑って考えるのは、さすがに、李徴がかわいそうだと思いますね笑
たとえ自尊心からにせよ、妻子を思うという点は、良いと思います。




3、そうはいっても、詩作はがんばっていた

李徴を侮ってはいけないとおもいました笑。かなり優秀なのです。
若くして、科挙(しかも難しい方)に合格しているのですから、やれる男です。
官吏も、使われるのをがまんさえしていたら、かなり上の地位に付けていたのではと思います。
詩作についても、「おれは真剣にやらなかった」といっていますが、それは、李徴の「羞恥心故の自分への評価」です。
実際は、かなりやっている。
あれです、「テスト勉強全然やってない!やばい!」って言って、めちゃくちゃいい点数とる人と同じです笑ヾ(^-^;)

「曾て作るところの詩数百篇ぺん、固もとより、まだ世に行われておらぬ。」
これが本当かは、若干怪しいですが、以下に分けられます。
本当=かなり努力してる
さばを読んで100篇ほど=それでも結構書いてるんじゃない?
実は朗読した30篇のみ=数百編と比べたらちょっと少ないかもしれないけど、それでもすごい( ̄ー ̄)


確実なのは、30編は作っているという事
長短凡およそ三十篇、トラになっても暗記して朗読してますから、この暗記して朗読できるというのは、相当ですよね・・・笑



こういう風に見ると、李徴は、非常に惜しい人物というか、かなりもったいない逸材というわけですね・・・。






では、李徴はどうすればよかったのか?


ここからが(!)本題であります笑

今回は本格的笑

個人的な見解で、先ほど、動機がまずかったという事を述べました。

音楽でもよくあるんですが、コンクールとかに出るとすると、「ミスのない演奏」を求める気質があります。
コンクールは、「ミスなく」しかも、「ほかの人よりも優れている(と思われるような)演奏」が求められます。

そこで、ピアノを弾く人は、「ミスせず」「競争」しようとするわけです。

こういう時に、どういう心理が沸き起こるか。

失敗を恐れるわけですね。
そして、競争に負けることを恐れる。
そういう恐れから、演技が硬くなる。
のびのびとした表現ができない。


オリンピック選手なんかでも、よくそういう風になってると思います。
彼等は、その恐怖心をうまくコントロールしていたり、コントロールできず、自分が望む演技にならなかったり・・・・・・。練習に練習を重ねたオリンピック選手ですら、そういう心理状況になるわけです。


ピアノで言うと、演奏者は本来、美しい音色で、心に響くような演奏を求めていることが多いです。
そして、それを求めるごとに、流暢な指の動き、表現が実現されていきます。


確かに、美しい音色の連続というのは、ミスがなく、和音がきれいにそろっています。
でも、それは、「美しい演奏」を求めたからで、「ミスしたらだめだ」という気持ちから現れたものではないのです。

「ミスしたらだめだ」という気持ちから、「ミスをしない」という状況に達することは、もちろんあります。
それも、もちろんミスがないので結局、ある程度は美しいものになるのでしょうが、心に響くかどうか、は別問題になってくるのではないでしょうか。
そして、「ミスしまい」と思えば思うほど、表現が硬くなってしまうのではないでしょうか。
それが高じると、最悪、ミスが怖くて、弾けなくなるという状況までなるのでは・・・・・・。(:_;)


おそらく、李徴の詩作は、それと似たような状況になったのではないでしょうか。
あまりに羞恥心が強く、できないかもしれないということを認められなかった・・・。悲しいことです。


とはいえ、羞恥心、自尊心、それ自体は、そんなに悪いものではないと、僕は思います。
羞恥心がなければ、あまりにもあけっぴろげで、他人のことを考えない感じになるかもしれません。
自尊心がすこしもなければ、ちょっとも挑戦することができないのではないでしょうか。

そう考えた時に、では、どうすれば?という事なんですね。

最近、僕は巷で話題の、アドラー心理学を勉強していますが、アドラーは、フロイトのような原因論ではなく
目的論の立場をとります。

例えば、学校に行く前、おなかが痛くなる子供。こういう子は、登校時間がすぎ、
もう学校へ行けないというような電話をすると、ケロッと治っちゃうそうです笑

つまり、この子は、おなかがいたいから学校へ行けないのではなく
「学校へ行かないために、おなかをいたくしている」というわけなんですね。



アドラーの考えは、とてもしっくりくるものがあり、すごく賢い人だったのだなと感じています。
おすすめです!


さて、カフカの変身ってありましたよね。
芋虫に変身してしまう男の話です。

これは、どこか今回の山月記と似ていると思いませんか?

そう、変身です! へーんしん!(ノ◇≦。)

・・・すいません笑

変身しちゃってますよね、芋虫に。
この変身も、原因不明です。


ところが、アドラー流に考えると、確かに、なるほど!という事が見えます。
つまり、ザムザは、働きに行きたくなかった。
働かないですむようになるために芋虫になった。
こういうわけですね。

納得いきましたか?
個人的には、すっごく納得です笑
たしかに、ザムザはそんな感じでしたし、カフカ自身も、そんな感じだったらしいですもんね・・・。
まあ、納得いくかは個々人にもよりますけど、新しい視座を与えてくれることは確かだと思います。



さて、李徴はどうでしょうか。
先ほどの様に考えると、李徴は「詩作をすること(名声を得るための活動)から逃れるために虎になった」
という風に言えます。


本文を見てみましょう。

「己おのれの珠たまに非あらざることを惧おそれるが故ゆえに、敢あえて刻苦して磨みがこうともせず、
又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々ろくろくとして瓦かわらに伍することも出来なかった。」


李徴は、実際のところ、自分の心理に気づく0.001歩手前というところまでいっているとおもいます。
やはり、かなり賢いですね。

上の文はつまり、
「磨かれれば珠であるという事を信じておける状況を永続させるために磨かなかった」のであり、
「瓦に伍しない(平凡な人々に関わらないでいたい)ために、自分のものが珠であると信じていた」という事です。



そして、
「たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう」
というのは、
「私は虎になったので、発表しないですむ=発表しないでいれる(自分は珠だと信じていられる)ために
虎になった」という事なのでしょう。

かなりしっくりきます。



では、李徴の詩は、本当に珠ではなかったのでしょうか?

おそらく、磨けば一流のものになったのではないかと思います。
袁が認めるところでもあります。

また、
「己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、
堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。
虎と成り果てた今、己は漸ようやくそれに気が付いた。」と、李徴も言っています。

この文章は、前半はその通りでしょう。
しかし、後半の分が気になります。
「虎と成り果てた今、己は漸ようやくそれに気が付いた。」とありますが、
気づいたのは、本当に虎と成り果ててからなのでしょうか?


おそらく、賢い李徴のことだから、もう、だいぶ以前に気づいていたのではないかと思います。
でも、気づいたと認めてしまうと、それに向き合わなくてはならなくなる。
向き合うと、失敗するかもしれないという恐怖が襲う。
(この恐怖は、向き合うことを忌避するために生み出しているとまでは気づいていない)

そういう感じだと思います。


どうすれば、その恐怖を感じないようにできたか?

アドラー心理学から、考えてみたいと思います。
アドラーが、問題解決に向けて重要だと考えることは、他者への関心です。
そして、他者への認識を変えることが重要だと説きます。

具体的には、「私には、能力があると思う」ことと
「人々は、私の仲間だと思う」
という事です。


おそらく、李徴は激しい競争を経験して、「他者は敵だ」と認識していたんじゃないでしょうか。
他者への不信が根っこにあるのかもしれません。

また、「与えること自体よりも、受け取ること」を重視していたせいかもしれません。
つまり、賢い自分は、名声を手に入れるのが当り前だ、という考え方ですね。

詩で誰かを喜ばそうと思って作ったり、詩の優れた特性に関心を払って、そして、そこに重点を置いて
詩作にふけっていれば、自らを虎に変えうるまでの大きな羞恥心は生まれなかったのではないでしょうか。

もちろん、それでも、羞恥心があるという事はあるでしょう。一切なくなるというのは、難しいかもしれません。
でも、重点が代わるだけで、全然違ったアプローチができると思うんです。


つまり、「心に響く演奏」を求めて弾くのか
他人がミスを見張っているぞ!(みんなは敵だ!)と思って弾くのか。


また、他者もまた、賢くありうるし、価値のあることをしていると考えれば、
自分だけが特別優秀だと思いこむこともなかったのではと思います。

悲しい結末になってしまった山月記の李徴ですが、
その姿を心にとどめ、「どうすれば、その問題は解決されるか」を考え暮らしていきたいと思います。

あ・・・・・。



ポッケは元気!うひっ!( ̄∇ ̄*)


私はこう思う、など、コメントいただけると嬉しいです

動画はこちら

https://www.youtube.com/watch?v=eIxM4ubCr-c&t=16s

いろいろまとめ(^O^)
音楽(ピアノ)まとめ
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-05-16

本まとめ
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-05-16-1

文鳥まとめ
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-07-08-1

絵まとめ
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-07-08-2



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