物事を行う促進力、物事を行わない抑止力
物事をやったりやらなかったりするには、一つには、理解しているという事と、もう一つには、感じているという事がある。
どういうことかというと、たとえば、塀の上を歩く少年。
塀の上を歩く少年と、塀の上は歩かない少年。
この二人のちがいはなんだろうか。
Aは、塀の上を歩いても平気だと考えている(理解している)
違う言い方をすれば、おちたら危ないだろうとは理解していない。
つまり、塀からは落ちないだろうと理解している。
また、塀の上をあるいている時、怖さを感じず、むしろ平気だと感じている。
Bは、塀の上を歩くと、おちたら危ないという事を理解している。
こういうことが、二人の少年の行動のちがいとして現れると考えられるだろう。
つまり、理解しているかということと、感じているかという事だ。
だが、これにも段階がある。
まず、理解するという事と、そして、それから、感じるという事だ。
例えば、今にも塀の上を平気で歩こうとしている少年A。
この少年Aは、塀の上を歩くのは平気だろう、と「考えている」。
そして、塀の上にのぼる。まだ平気だ。
ところが、塀の上に立って、一歩二歩歩いたところで、塀の幅があまりにも狭く、
ここを歩くのはあぶないと「感じる」とする
すると、その少年Aは、塀をおり、もう塀の上は歩かず、塀の横に沿って歩くようになるだろう。
つまり、塀の上を歩いてみて、危険だと「感じた」ことによって、塀の上はおちたら危ないから
ちゃんと地面を歩こう、と「考えた」わけである。
このように、物事を促進したり、抑止したりするのには、二つのファクター、
つまり考えることと感じることの二つが存在するといえるだろう。
さて、塀の上を歩かなかったB。
Bは、友達に促されて、塀の上にのぼったとする。
すると、持ち前の平衡感覚が発揮され、塀の上を平気で歩くようになるとする。
この場合は、Bは、塀の上を歩くことは危ないかもしれないが、歩きたいと「感じ」それによって、
塀の上は歩けると考えるわけである。
このことから考えると、物事をやめようとするときは、考えているだけではだめだという事がわかる。
実際、Bは塀の上を歩くのは危ないと考えているにもかかわらず、歩くのが楽しいと感じるというだけで
歩くのをやめられない、という状態に陥る。
大げさな例で言えば、麻薬、アルコール、タバコ、パチンコなどのギャンブル、など・・・。
これらは、本人が辞めたいと思っているにもかかわらず、「楽しい」とか、「勝ちたい」と感じることによって
やめられないという状況に陥ってしまう例である。
たとえば、健康は大事だと考える。
多くの人が、健康は大事だと考えている。
それにもよらず、運動不足、むやみな飲食、不摂生、これらはなぜ起こるのか。
考えるという段階では成功していても、感じるという段階で、本当に健康の大事さを感じ取れていないことに
他ならないのではないだろうか。
考えるという事、それから、感じるという事。
理想的な姿になるには、健康の大事さを身に染みて感じればいいということだろう。
他にも、生の短さは良く僕は考える。
そういうことを念頭に置いて、理想的な姿をめざし、それが大事だと考え、感じられるような体験を積むこと。
これが大事なんじゃないだろうかと、ふと思った。