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映画「JOKER」感想 [映画]

映画ジョーカー見てきました。
演技がすごい!
そして内容、考えることが盛りだくさんな映画でした。

悪とは何か? 正義とは何か? 貧困とは何か? 正常(狂気)とはなにか?
ジョーク(笑い)とは何か? 暴力とは何か? 環境とは何か? 妄想とは何か?

これらの問題が多くのしかかってくる映画です。
こういうことをなぜ監督は描くのか?
ジョーカーという題材で、別の描き方もできたはずです。
何らかの思いがあると思います(ジョークです)

今回は、このジョーカーの感想です。
完全にネタバレありで、見た人向きの記事になっています。
なので、まだ見ていない人は読まないほうがいいです。





ネタバレ注意!(+_+)
ネタバレ注意!(+_+)
ネタバレ注意!(+_+)
ネタバレ注意!(+_+)
ネタバレ注意!(+_+)
ネタバレ注意!(+_+)









さて、ネタバレ注意君(+_+)も出しておいたので、ここからは本当にネタバレで書いていきます。
とはいえ、あまり本筋を追っていくのはよくないので、本当に見た人はわかるような書き方になっています。
今回結構詳細だよ笑

内容

1ピエロとは何か?ジョーカーのキャラクターについて
2映画「ジョーカー」の謎
3ジョーカー(アーサー)に共感できるか?
4何を描こうとしているのか?
5映画ジョーカーの考察&感想



1ピエロとは何か?ジョーカーのキャラクターについて

ジョーカーのキャラクターについてまずは書きたい。
ジョーカーというのは、バットマンの宿敵ですね。それで、ダークナイトで最近(?)有名になりました。ヒースレジャー演じるジョーカーすごかったですよね。
あれを期待して映画に見に行った人も多いんじゃないでしょうか?


さて、今回の映画、ヒースレジャー版ジョーカーとの違いです。
ヒースレジャー演じるジョーカーというキャラクターは、悪者だけど、何を考えているのかわからないあたりがとても怖い。次に何をしでかすのか、行動が読めない。そのため、バットマンや警察は常に後手に回らざるを得ないのだ。
なぜジョーカーの行動が読めないのか?
それは、ジョーカーに目的らしい目的がないことによるのではないだろうか。
例えば、銀行強盗したと思えば金を燃やす。ボスかと思えば部下を殺す。
こういう具合に、地位とか金とかを目的に行動しているわけではない。
ジョーカーがしていることはバットマンをくじくことで、バットマンがやりたくないことを無理やりさせようとする。
 つまり、ヒーローを悪人に変えるとか、一般市民に殺人を起こさせるというような、人間の倫理、存在を変化させ、悪行を働かせるということを楽しんでいるキャラクターといえる。なので、街を爆破しようとするヴィランなんかより、はるかに行動が読めないというはめに陥る。
ジョーカーは誰も信じず、何物にも屈しない。
また、バットマンに殺人をさせるためなら、自分がバットマンに殺されることもいとわない。
ジョーカーは精神病と認定されるため死刑にすることもできず、精神病院に送り込むしかない。

また、ジョーカーはトランプの裏表、バットマンの裏である、という描き方をされる。バットマンが存在するためにはジョーカーの存在が必要で、ジョーカーが存在するためには、バットマンが必要となる。これはつまり、だいたいにおいて、ヒーローが登場する話には悪役が必要で、悪役が登場(以下略)ということである。
それはそうとして、役としてもバットマンの反対に描かれている。かつ、類似性のあるキャラクターでもある。



笑うジョーカー 笑わないバットマン
人を貶めるジョーカー 人を助けるバットマン
街を(精神性から)破壊しようとするジョーカー 街の発展を求めるバットマン
誰も信じないジョーカー 友人の多いバットマン

似ている点としては
ピエロの扮装をするジョーカー コウモリ男の扮装をするバットマン
暴力に訴えるジョーカー   時に暴力に訴えるバットマン
など・・・・・・。

今回の映画ジョーカーでは、ダークナイトのジョーカーとは違う描かれ方をしていた。それこそ、本当にバットマンとジョーカーが対比するものとして描かれている。

虐待を受ける←→高度な教育
父親が誰かもわからない←→父親は市長候補
貧しい生活←→裕福な生活
悲惨な環境←→恵まれた環境
貧困にあえぐ←→慈善事業に手を出す程度に裕福
不健全←→健全
友達がいない←→友達ができるだろう
コミュニケーションが取れない←→コミュニケーションが取れる
運が悪い←→運がいい

今回の映画ジョーカーで、のちにジョーカーとなるアーサーはこのように、
徹底的にバットマンの逆として描かれている。そして、かれはコメディアンを目指すピエロでもある。


ピエロとは何か?

ピエロ、道化師は、人を笑わせる人。メイクは派手で、滑稽な動きで笑いをとる。
そのメイクには、涙の模様がある。つまり、笑わせようとしているんだけど、泣いている。どこか傷ついている。それも含めて笑いに変える。また、風刺的側面をもった笑いを起こす。
基本的には、ピエロというのは「笑わせる人」というよりも「笑われる人」ということだろう。
笑われているんだけど、同時に笑わせてもいる。結果的に人は笑っている。次第にその境目が見えなくなる。
自分は今笑われているのか? それとも笑わせているのか?
笑われているという自覚があるから、涙のメイキャップとなっているが、同時に笑わせているかもしれないという錯覚が、笑いのメイキャップとなった、混在したメイクをピエロはしている。
ジョーカーの意味もほぼ同じで、道化師、または洒落や冗談を言って周りを楽しませる人。
トランプのジョーカーは切り札として使われる。最も弱いカードでありながら、最も強いカードにもなりうるのがジョーカーのカード。
戦況をひっくり返すカード、要するに、カオスを巻き起こすカードだといえるだろう。


このような、トリックスターとしてのジョーカー。
だから、行動が人間のとるようなものとかけ離れていることが多い。
ジョーカーに共感することは少なからずあっても、理解するのは難しいし、同一化して考えることはもっと難しい。
そういう意味で、悪いジョークのような映画でもある。



2映画「JOKER」の謎

次に、映画ジョーカーの所々にみられる謎について
映画ジョーカーは謎めいたシーンが多い。

1どこまでが現実でどこまでが妄想か?
2結局ジョーカーの父親は誰か?
3最後のセリフの意味とは?
4アーサーはいつジョーカーとなったのか?
5煙草に込められた思いは何か?
6結局笑いの発作は本当だったのか?
7弾切れを起こしていたのでは?
8銃を手に入れる経緯についての不可解さ


1どこまでが妄想か?
明らかに妄想とわかるシーンと、妄想なのかどうなのかわからないシーンがあり、その結果、どこまでが(映画内)現実でどこまでが妄想なのかがわからないような描かれ方をしている。
なので、一人ひとりの感想にゆだねられる。ラストシーンまですべて妄想という派と、ほとんど現実派がいるようだ。僕個人的には、妄想と現実が入り混じっている派で、しっちゃかめっちゃかというイメージ笑 見た感じ、そもそもマーレイに呼ばれてはいないという印象を持った。後半の流れが妄想という印象で、弾切れしていたのにも合点がいく。
 

2結局ジョーカー父親は誰か?
ジョーカーの親は謎であり、トーマスウェイン(バットマンの父)なのか、または別人なのかわからないような描かれ方をしている。ここは本当にわからない。


3最後のセリフの意味は?
「面白いジョークを思いついたよ」「どんなの?」「君にはわからないさ」
君にはわからない、ということそのものがジョークなのか、ジョークを言っても君にはわからないという意味なのか、君は理解する前に死んでしまうからわからないのか。
観客には理解できないという意味(共感を突き放す)なのか。
それとも、これまでの流れすべてがジョーク(妄想)なのか、この映画そのものがジョークなのか、非常に含蓄のあるセリフとなっている。


4アーサーはいつジョーカーとなったのか?
結構難しいところで、バットマンと相対するジョーカーを考えたらアーサーは年を取りすぎという意見もある。つまり、アーサーは引き金であって、バットマンに登場するジョーカーではない、という意見。僕としては、ジョーカー的な部分を人間が持ち合わせており、彼の中のジョーカーが覚醒したという意味では、ジョーカーに覚醒したといえるだろうと思う。マーレイを殺害した後くらいで、完全にジョーカーとなったのではないかと思うが、徐々にジョーカーになる映画だと思うので、あやふやな部分がある。アーサーとジョーカーが入り混じっている。ただ、最後の精神病棟でのアーサーはジョーカーだと思う。

5煙草に込められた思いは何か?
やたら煙草を吸っている。吸いすぎなくらい。何か意味を込めているのは間違いないだろう。煙草はメタファーであると思われる。
煙草を吸うのは中流層に多く、毒であると同時に多幸感をもたらすものでもある。
麻薬的側面を持つ。
つまり、自己破壊の象徴、そしてその自己破壊を自己肯定するものとしての煙草であると考えられる。

6結局笑いの発作は本当だったのか?
障がいによって笑っている、という可能性以外にも、精神的な抑圧から、笑いが起こっている可能性がある。
アーサーの笑い、その笑いに注目していただきたい。眉をしかめたまま笑っている。
つまり、笑いたくもない、むしろ「ネガティブ」な時に笑っている可能性が高い。
アーサーが笑う時に注目したい。(違っている箇所があるかもしれません)
1バスで子供を笑わせる。母親から、かまわないで、と言われる→笑いの発作
2不気味な奴だ、と同僚に言われる→笑いの発作
3電車内で女性に絡む3人の男を見る→笑いの発作
このように、本来なら悲しかったり嫌だったり起こったりしたいときに、笑いの発作が起こっている。
これは、親から「ハッピー」というあだ名をつけられていることからもわかる。スマイル、という曲がこの映画で使われている。笑っていれば、人生には価値がある、というような歌詞の曲だ。
アーサーは、笑いを親から強制されている。つらいときこそ笑いなさい、というようなことを言われてきている。そういうことによって一時的に何とかなることもあるが、それだけではどうしようもない。だが、アーサーにはそれしかない。つらい時も笑うしかないのだ。
つまり、笑うことだけは許可されている。そして、笑うことしか許可されていない。
だからコメディアンを目指すし、コメディアンを尊敬するのだ。
この「つらい時に笑う」という症状と、「自己コントロールを失ってしまう」というアーサーの人物から、笑ってはいけないような状態のときに限って、笑ってしまう、ということが起こっているのではないかと僕は思いました。


7弾切れを起こしていたのではないか?
マーレイを殺害するにあたって、銃は弾切れを起こしていたのではないか?
すくなくともそうおもった。なので、このシーンは妄想か、あるいは弾をどこかで購入しているということになる。(弾丸の購入シーンは描かれていない)


8銃を手に入れるシーンが不可解
アーサーが銃を仕事仲間からもらうのだが、それがあまりにスムーズなのが不可解。仕事仲間はなぜ銃を渡すのか?
これは完全に僕の妄想だが、暴行少年たちとランドル?はうしろでつながっていて、ランドルは恩を着せ、銃を売りさばくためにアーサーを襲わせた、と思うとしっくりくる。
だいたい、ピエロ派遣業の店主?は、アーサーが看板を奪われたのはわかるはずだ。
彼と一緒にピアノを弾いていたものがいて、奪われるシーンを目撃しているのだから。
なぜアーサーがそう店主?にいいかえさなかったのか、不思議である。アーサーがそれほど頭がまわらない人間だという描写か、単に脚本に穴があるか。
とにかく、普通は銃を渡さないだろ、というところで、これは日米での感覚の違いかもしれないが、不自然さというか、あまりにもスムーズに行き過ぎているのを感じた。



3ジョーカー(アーサー)に共感できるか?

ジョーカーに共感できるかといわれると、なかなか難しいところがある。
まず、ジョーカーの現状だが
①虐待を受けた過去
②精神薬を7種のむ
③重度の喫煙習慣
④突然笑ってしまう発作持ち
⑤運動神経はよくない 
⑥誰からも相手にされない(友達も恋人もいない)
⑦夢を持っている(コメディアン)がうまくいきそうもない
⑧母子家庭
⑨極度の貧困
⑩仕事仲間からの裏切り
⑪妄想癖


という、ざっと挙げただけでもこれだけの状況に囲まれている。
とはいえ、いくつか体験したり当てはまる、という人は少なからずいるだろうし、似たような体験をすることもあるので、そういうところで共感してしまう、共感を呼ぶという作りになっている点は否めない。
彼の境遇がどんどんひどいものになっていく点も、同情を呼ぶ作りになっている。


そういう意味で、バットマンよりははるかに共感を呼びやすい構造である。
バットマンは「大金持ち」「イケメン」「ハイスぺ」「笑わない」「コウモリ恐怖症」「自警癖」と、はっきりいって、共感しにくい笑
その点、ジョーカーのほうが一見マジョリティで(実際のジョーカーはかなりのマイノリティ)感情移入しやすい。また、根はいい人であったのではないかと思わせられるので、応援したい、と思わせるような弱者であるといえるだろう。とはいえ、例えばブルースの顔を笑わせようとするシーン。
これは、実は悪いことはひとつもしていない。自分が持っているのは笑顔だけだから、渡せるのも笑顔だけなのだ。とはいえ、こどもの口の中に手を突っ込み、口角をあげるのは「どうかしている」としかいいようがない。ブルースウェインが子供ゆえにそれを受け入れてしまっているため、一見あり得ることなのかと思わせるも、執事がきて観客は奇行に我に返る。
このあたりで、アーサーの狂気性、異質性、共感力のなさ、コミュニケーションの断絶を表現しているあたりは、さすがだなという感じがする。
つまり、共感したり感情移入したり同情することはあるが、それと理解するということはまた別で、アーサーに共感、同情したとしても、理解することは難しいという線引きがなされている。
つまり、母親以外誰からも相手にされない、というようなこと、それは少しはあるかもしれないが、本当に相手にされない、ということはまれだし、孤独になる時もあるだろうけど、友達がいないこともない・・・という人が大半で、共感する部分はあるにしても、完全ではないはずだと思われる。
そのあたりのバランスが、非常にうまいですね。


4何を描こうとしているのか?

これらのことを踏まえて、この映画はどういうものか考えたい。
トーマスウェイン(バットマンの父)が、いやな人物として描かれている点は間違いない。
社会的な弱者にとどまり続けるものはピエロだ、というような発言をしたり、貧困層があえぐ中、優雅にチャップリンのモダンタイムス(労働者のための映画)を見る。
そして、極めつけはゾロも見ている。
「社員は家族」といいながら、社員の顔も知らない。そして、元社員だったアーサーの母への援助はないどころか無視である。
暴力も振るっているし、そういう意味で「嫌な奴」として描かれているのは間違いない。

一方アーサーは、非常に追い詰められていて、同情しても仕方のないようなことばかりが起こる。たとえば、急に看板を奪われ暴行を受ける、だとか、社会福祉の援助を打ち切られる(ウェインによって)だとか。つまり、アーサーに感情移入しやすいような作りになっている。
しかし、ここでよく踏みとどまって考えれば、トーマスウェインが悪者ではないことはわかるはずだ。たとえば、打ち切るということは、それまで福祉をしていたのはウェインだし、アーサーの奇行から、アーサーを殴っている。それは最善ではなかったかもしれないが、一定の理解を得られる行為であるものだったと思う。
そこで、じゃあ監督はアーサーに感情移入させて、何を見せたかったのか?という問題になる。
おそらくそれは、現実の暮らしであり、切り捨てられる弱者であり、社会や力のあるものが「見ようとしなかったもの」「見たくなかったもの」それと同時に民衆にとっては「切り捨てられる自分自身」であり、自分がそうでありながら「切り捨ててきたもの」であり「もしかしたらこうなっていたかもしれない自分」でもある。

つまり、非常に警告的な映画だといえるだろう。
こうならないようにしよう、と思い、実際にこうはならない人が大多数であるのは間違いない。一方、マイノリティ中のマイノリティ(重度の精神疾患を持ったり、コミュニケーションをうまくとれなかったり、どこにも友達がおらず、というような要素が幾重にも絡み合う人物)には、もう「こうならざるを得ない」という人もいるのではないか、と思わせられるような作りだった。

要するに、犯罪を正当化してしまっているようなニュアンスがあるのだ。
ただ、決定的に違うのは、やはりジョーカーだからこうなったのであって、ジョーカーでなければこうならないのではないか、ということだ。
一般的に、殺人を犯した人も、ジョーカーのようではない。つまり、ジョーカー的狂気を持ち合わせてはいない。ジョーカー的狂気というのは、つまり「悲劇が喜劇」という物事が完全に反転してしまった状態だと考えられる。
この映画で、悲しいのに滑稽(実際には笑うに笑えないのだが)のような、背筋の凍るような寒いギャグ的シーンの数々がある。暴行される時、急所だけは守るだとか、ピストルを落としちゃうだとか、救いを求めに行った父親に殴られるだとか。
「笑いに変えるしかない」ような悲劇を、「喜劇」とすることはあるが、ジョーカーとなった彼は積極的に「喜劇」を創作しようとする。
つまり、人を殺すのもジョーク、というような、狂いがそれにあたる。



5考察&感想
長いね、この記事笑 まあでも仕方ないかな。付き合ってくれてありがとうございます!(*^-^*)
さて、この映画ジョーカーについて、考察したいことがいくつかあって、映画ジョーカーの謎でも取り上げたけど、加えていくつか。

考察
①アーサーという人物について
②アーサーにとっての幸せとは何か?
③コメディショーでのアーサーについて
④この映画はハッピーエンドか? バッドエンドか?

①アーサーという人物について
アーサーはよいところもたくさんある。子供にやさしいように見えるし、親の面倒をみたりしている。
ただ、短気で、自分に気に食わないことが起こると、恨みを持ちやすい傾向にある。
人の気持ちがわからないか、というとそうでもないが、コミュニケーションはうまく取れない。
問題は、その良いところまでが、実は塗り固められたものではないか、ということだ。
アーサーは虐待を受けている。つまり、親には逆らえない、逆らわないようにしている。
この結果、「ハッピーでいなさい」ということに「逆らえない」
人を笑わせるということすらも、実は虐待の結果だったのではないか?
アーサーはそういう気持ちもあって凶行に及んだのではないだろうか。
つまり、笑いすらも虚構であった。唯一の「コメディアン」というアイデンティティすらも崩壊するということを描いている。

また、薬の服用もテーマになっている。薬が切れるにつれ、実はアーサーは「正気を取り戻していく」
そこらへんの描き方がすごい。つまり、今までのアーサーは「薬によって抑圧された人間」だったのだ。


②アーサーにとっての幸せとは何か?
アーサーにとっての幸せは、それが虚構であろうと何だろうと、ひとを笑わせる、そして「拍手喝さいをもらう」ということだろう。
そうすることで、自分が「実在している」と感じられ、「価値がある」と実感できると思い込んでいる。そして、それが幸せだと思っていると思う。

③コメディショーでのアーサーについて
アーサーは当初自殺する予定だった。それは、自殺の予行演習を行っていることからもわかる。
あそこで、衝撃を残したいからこそ、警察にはつかまりたくなかったのだろう。
ところが、そのような予定とは裏腹に、アーサーは凶行に及ぶ。
なぜだろうか?
それは、デニーロに邪魔されたからに他ならないだろうと僕は思う。
ノックノック・・・。までは予定通りだ。つまり、この時点ではアーサーは自殺するつもりだった。
ところが、チャチャがはいる。デニ色がチャチャッとチャチャをはさむ。
そこでアーサーの怒りに触れる。それは、アーサーが貧乏ゆすりをしたことからもわかる。
その後、アーサーはデニ色に対し色々言ってはいるが、それは付け足しだった。
もともとは自殺するつもりだったのだ。

つまり、アーサーは殺人をするつもりであの場所に行ったつもりではなかった。
これは非常に重要なことだ。アーサーは、コメディショーで「笑いものにされた」ことに、呆然とする場面があるが、そこでアーサーは自分が笑いものにされたことを受け入れるしかなかったはず。
そして、電話で出演依頼が来ることも予想できないことだった。
つまり、番組を見た時点で、デニ色に殺意を抱くことがあったとしても、デニ色を殺害することはできないことは自明の理だ。
アーサーがあそこで受けたのは絶望で、コメディアンとしての死刑宣告をされたような気持ちだったのではないか。そして、電話で出演依頼がきても、アーサーはデニ色を殺すのではなく、自殺の予行演習をしている。つまり、途中まで殺意はなかった。
最後、チャチャをいれたからデニ色を殺害する方向へ、急遽舵を取ったのだろう。


④この映画はハッピーエンドか? バッドエンドか?
最後、パトカーと救急車が衝突し、キリストのようにアーサーは祭り上げられ、そしてアーサーがパトカーの上で踊る。
このシーン。
ここをして、ハッピーエンドだとする意見が結構あるが、僕はそうは思わない。とはいえ、ハッピーエンド的要素がないわけでもない。

このシーンは非常によくできている。僕が思うに、すべてはこのシーンに到達するためにあった。そして、このシーンが意味するものは、強烈な皮肉だと思う。

先ほど、アーサーにとっての幸せは、皆に認められること、そして、皆を笑わせること、ということだと書いた。その図式が、ここでは成り立っている。
アーサー(ジョーカー)は、「笑うピエロ」に囲まれて「拍手喝さいを浴びている」
だが、それはコメディアンとしてではない。
アーサーの願いはコメディアンとして、人を笑わせるということだった。
だが、現状はどうか? 周りの人々は、アーサーを自分の代弁者としてたたえている。
そして、それは全くの誤解にすぎない。

アーサーの殺人は、富裕層への逆襲ではない。殺人の動機は、防衛本能、恨み、怒り、やけっぱちなどによるものだ。そして、アーサー(ジョーカー)を祭り上げたところで、彼は貧困層のヒーローにはならない。(バットマンから考えるに、ジョーカーは誰も信じず、誰のためにも働かない)
つまり、アーサーを讃えるのはお門違いであった。アーサー自身も、政治的意識はないとでに色に対し答えている。そして、急遽自殺から他殺へと舵を切ったアーサーは、でに色を殺害する「言い訳」として、でに色を非難している。もちろん、アーサーの中にも、そういった市民をないがしろにする者に対する怒りはあった。だが、根本的にはコメディアンとしての尊厳を侮辱されたから(ギャグをジャマされたから)デニ色を殺害するのである。

このないまぜ状態を、民衆が勝手に誤解した。
アーサーは、アンチヒーローとして祭り上げられる。
これがアーサーの望んだことだろうか?全く違う。笑

とはいえ、そこには「自分がいるという実在感」や拍手喝さいを浴びることで、自己肯定感を得られたはずだ。
これは、とんでもない皮肉である。そして、悲劇のはずだ。
つまり、バッドエンドだ。だが、アーサーにとっては「だからこそハッピーエンド」なのだ。
なぜなら、彼にとっては「悲劇こそ喜劇」であるから。
彼の狂いによって、この強烈な皮肉がハッピーエンドとして反転する。


自分の死をギャグにしてまでも、コメディアンとして拍手(それを聞くことはないが)を求めていたアーサー。だが、デニ色を殺害したのちは、完全にその夢は絶たれる。もう、絶たれてしまったのだ。

ジョーカーは涙ぐみながら踊る。
その涙は、果たして喜びの涙か? 悲しみの涙か?



感想
えらいものを作ってくれましたな、という感じ笑
観客によってとらえ方が変わるので、どうとでもとらえることのできる映画。そういう映画は嫌いじゃないんだけど、あまりにもその幅が大きいので、もうすこしそこは制限が欲しい気もした。

そういう意味で、やはりジョーカーのジョーク的作品なのではないかと思った。


今日はこんなところで。頭の中がもやもやしていたので、書くことにしました。
演技はとてもよかったし、音響も目を見張るものがあったぞよ!('ω')(ジョーク)
個人的には見てよかったと思いました。颯爽と階段を踊りながら降りていくシーンがよかった。
とはいえ、とてもおすすめはできない映画でした!!笑


ではでは('ω')ノ


いろいろまとめ(^O^)
音楽(ピアノ)まとめ♪♪(*´▽`*)
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-05-16

本まとめ(・x・ ).o0○
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-05-16-1

文鳥まとめ(^ω^*)))
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-07-08-1

絵まとめ〆(.. )カリカリッ!!
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-07-08-2



#JOKER #ジョーカー



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宮崎駿のアレンジ技術 となりのトトロ編② [映画]

さて、続きです。

読まずに、え?映画の話?と思われるかたもいるかもわかりませんが、そんなことはなく、ここではこれからもいろいろ本と絡ませていきます!







アリスのチェシャネコと、猫バスのほかにも、トトロには、いろんな作品から引っ張ってきた表現がある。

たとえば、まっくろくろすけのシーン。
めいとさつきが、戸を開けると、まっくろくろすけがぶわっとあふれ出ているあのシーンである。

あれは、佐藤さとるの、『だれも知らない小さな国』の一シーンを、真っ黒クロス家に置き換えて表現したものである。
th (1).jpg
それは、どんなシーンかというと、少年が、小人が住む家を作って、その家の戸を開けると、家の中にいたたくさんの小人たちが、いっせいにかくれる……というシーンである。

このシーンは、文章を読んだだけで、すごくイメージさせられるというか、非常にいいシーンなんですが、
宮崎駿はこの本を読んでいるのはわかってるんだけど、絶対にここを視覚化させたいと考えたに違いないと思うんです。

それが、まっくろくろすけのしーんで使われている。
僕は、この『誰も知らない小さな国』を読むまでは、そんなこと気づきもしませんでした。
だけど、読んだ人ならピンと来るはず。
ここは、小人をまっくろくろすけに置き換えて、映像という形で宮崎駿がアレンジしたのだ・・・と、わかっていただけると思う。

宮崎作品には、ほかにもそういう個所がたくさんあって、それがおもしろい。
見ている人は、たいてい元ネタを知らないから、アレンジしているとは気づかない。







でも、宮崎駿の大きな特徴は、このアレンジする力にあると僕は思っていて、それを映像として、繊細さと大胆さを持って圧倒的な表現として映し出すから、説得力があって面白い。

トトロ自体は、最初はミミズクだったが、これをどんどん変化(アレンジ)させて、トトロにしてしまう。
こういったことが、ほんとにうまい。それは、イメージ力に支えられているんだと思う。

トトロ編はとりあえずこんなところにします! ご一読ありがとうございました!

th (1).jpgまずは、この写真を見てほしい。


これは、ルイスキャロル原作、『不思議の国のアリス』に出てくる、チェシャネコである。
アリスといえば、だれもが知らないはずはない有名作であり、ディズニーの映画化も相まって、有名である。
最近は、ジョニーデップ主演の、『アリスインワンダーランド』という映画も作られた。
余談だが、この映画も続編ができるようである。

さて、本題は、宮崎駿原作『となりのトトロ』に、このチェシャネコが出てくることである。
その猫とは、言わずと知れた、猫バスだ。

猫バスの写真ははれないが、見た方は思い出してほしい。猫バスは、ほとんどいつも、にやにや笑っている。そして、映画の最後、にやにやを残して消えるわけである。

これは、チェシャネコそのものである。
チェシャネコはいつもにやにや笑い、そして、消える最後、にやにやだけを残して消えるのだ。
原作を読んだ方ならわかるだろうが、アリスはにやにやだけ残して消えてしまうチェシャネコを見て、
「にやにやだけのこすだなんて!」と、びっくり仰天の体である。

ここには、ルイスキャロルの遊びごころがある。
チェシャネコのもともとの由来は、英語で、チェシャーキャット(Cheshier cat)という表現が本当にあって、「わけもなくニヤニヤ笑う」という意味で使われているというところからきているのだが、ルイスキャロルは、そのことに注目して、にやにや笑いを強調しているのだ。
にやにやだけを残すだなんて、最近で言う、「ドーナツの穴だけ残して食べる)ようなものである。

さて、ぼくは、宮崎駿という人間に興味を持っていて、彼の仕事ぶり、発言、好きな本など、いろいろ調べた。
その結果、岩波少年文庫の100冊で、『ふしぎの国のアリス』が取り上げられているのに気づいた。
宮崎駿はアリスを読んでいることは間違いないだろう。つまり、宮崎駿は、「猫」と、「バス」と「チェシャネコ」を混ぜて、猫バスを作ったのである。


このように、チェシャネコと猫バスは、切っても切れない関係にある。
ところが、我々は、アリスをよく知っているくせに、猫バスをみても、「これはアリスから取ってきているのだ!」とは気づかない。僕自身、ずっとわからなかったし、まったくおかしな話だが、本当に、なかなか気づかないのだ。

なぜか。

ここからは個人の考察になるが、すなわち、猫バスには、バスという要素が非常に大きいからといえるだろう。
猫がバスに化けている! これはもう、びっくり仰天である。ほとんどだれも、考え付かない。
そしたら、もう、そのことが気になるのである。
あのおなかのなかはどうなってるのだろうか?乗れるのか?
そんなことばかり気になって、その猫が笑っていようが、消えようが、そんなことはあんまり気にならないのではあるまいか。
ちなみに、当時のバスの形はこんなだった。SS000016-1.jpg

あと、トトロも頻繁に笑っている。これも相まって、猫バスが笑うのは、自然なこととして受け止めてしまうのではないか。

このようにして、知ってか知らずか、宮崎駿は本当に巧みに「チェシャネコ」を「猫バス」に取り組むことに成功しているのである。つづく。


いろいろまとめ(^O^)
音楽(ピアノ)まとめ
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-05-16

本まとめ
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-05-16-1

文鳥まとめ
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-07-08-1

絵まとめ
http://op63op29pia30845.blog.so-net.ne.jp/2015-07-08-2

宮崎駿のアレンジ技術 となりのトトロ編 [映画]

th (1).jpgまずは、この写真を見てほしい。


これは、ルイスキャロル原作、『不思議の国のアリス』に出てくる、チェシャネコである。
アリスといえば、だれもが知らないはずはない有名作であり、ディズニーの映画化も相まって、有名である。
最近は、ジョニーデップ主演の、『アリスインワンダーランド』という映画も作られた。
余談だが、この映画も続編ができるようである。

さて、本題は、宮崎駿原作『となりのトトロ』に、このチェシャネコが出てくることである。
その猫とは、言わずと知れた、猫バスだ。

猫バスの写真ははれないが、見た方は思い出してほしい。猫バスは、ほとんどいつも、にやにや笑っている。そして、映画の最後、にやにやを残して消えるわけである。

これは、チェシャネコそのものである。
チェシャネコはいつもにやにや笑い、そして、消える最後、にやにやだけを残して消えるのだ。
原作を読んだ方ならわかるだろうが、アリスはにやにやだけ残して消えてしまうチェシャネコを見て、
「にやにやだけのこすだなんて!」と、びっくり仰天の体である。

ここには、ルイスキャロルの遊びごころがある。
チェシャネコのもともとの由来は、英語で、チェシャーキャット(Cheshier cat)という表現が本当にあって、「わけもなくニヤニヤ笑う」という意味で使われているというところからきているのだが、ルイスキャロルは、そのことに注目して、にやにや笑いを強調しているのだ。
にやにやだけを残すだなんて、最近で言う、「ドーナツの穴だけ残して食べる)ようなものである。

さて、ぼくは、宮崎駿という人間に興味を持っていて、彼の仕事ぶり、発言、好きな本など、いろいろ調べた。
その結果、岩波少年文庫の100冊で、『ふしぎの国のアリス』が取り上げられているのに気づいた。
宮崎駿はアリスを読んでいることは間違いないだろう。つまり、宮崎駿は、「猫」と、「バス」と「チェシャネコ」を混ぜて、猫バスを作ったのである。


このように、チェシャネコと猫バスは、切っても切れない関係にある。
ところが、我々は、アリスをよく知っているくせに、猫バスをみても、「これはアリスから取ってきているのだ!」とは気づかない。僕自身、ずっとわからなかったし、まったくおかしな話だが、本当に、なかなか気づかないのだ。

なぜか。

ここからは個人の考察になるが、すなわち、猫バスには、バスという要素が非常に大きいからといえるだろう。
猫がバスに化けている! これはもう、びっくり仰天である。ほとんどだれも、考え付かない。
そしたら、もう、そのことが気になるのである。
あのおなかのなかはどうなってるのだろうか?乗れるのか?
そんなことばかり気になって、その猫が笑っていようが、消えようが、そんなことはあんまり気にならないのではあるまいか。
ちなみに、当時のバスの形はこんなだった。SS000016-1.jpg

あと、トトロも頻繁に笑っている。これも相まって、猫バスが笑うのは、自然なこととして受け止めてしまうのではないか。

このようにして、知ってか知らずか、宮崎駿は本当に巧みに「チェシャネコ」を「猫バス」に取り組むことに成功しているのである。つづく。


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